塩や鰒(アワビ)、海草などの海産物は、神事の際などに貢がれる神饌として古くから用いられた。
またこれら海産物が豊富に捕れる地域の支配が、地域の権力者によって重要な政治的意味を持ったことは
十分に想像できる。贄の貢ぎが史料として現れるのは、日本書紀の大化の改新の詔の其の四のところで、
「凡その調の副物の塩と贄(にえ)とは、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ」とある。実際、藤原京・平城京
の発掘調査から多数の木簡が出土しており、これら木簡のほとんどは都に税として納められた物品を示す
記述であった。木簡の記述には納められた物品の名前とともに貢ぎ先の国名、郡名が記され、それが何の税
にあたるか、すなわち租・庸・調の文字が記されている。一部の木簡は租・庸・調ではなく、贄や御贄(みにえ)
、大贄(おおにえ)の文字を見つけることができる。また贄を納める義務を負ったものを贄人と呼んだが、贄を
納めることで調などが一律に免除されたかどうかは断定できない。しかし神饌の意味する本来の自発的に
土地の海産物を神々に貢進したというものから、首長(天皇)に贄を奉じこれを首長が食べることで贄の取れた
土地を支配していることを誇示する儀式となった。さらに贄は律令制の下税のように強制的な収奪へ変化
したことが伺える。大宝律令および養老律令においては、贄の貢ぎに関する記載は見当たらない。
しかし『延喜式』には御食国による贄として貢ぐ内容が詳細に記述されている。「諸国貢進御厨御贄」
『延喜式』によると、宮内省の内膳司(皇室、朝廷の食膳を管理した役所)の条に、「諸国貢進御贄」、
などの項目がある。この項には各国に割当てられた食材をそれぞれ毎月(旬料)・正月元旦や新嘗祭などの
節日(節料)・年(年料)に一度というように内膳司に直接納めることが規定されていた。
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