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桜
サムハラ

E”《三木市の三角公園の石碑》

兵庫県三木市にある日本一小さい公園



この字を正確に書き写して持っていれば怪我をしない有り難い神字です。

この「不思議の四文字」をお財布の中にお持ちになられると良いでしょう。

この「石碑」を建てるまえには、この公園では、交通事故が多発していましたが、


↑お守り印刷
A4で!
の「文字」の由来をとある宮司から伺って「石碑」を設置してから事故は皆無です。

サムハラ神社の建立者

田中富三郎。1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。 万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。加茂西小学校に 図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章 を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争 と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を 世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は 伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をして いたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に 配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を 乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年 と称した。  「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝 を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。 享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。
ポジティブオーラ

織田信長の安土城が出来た年である天正9年(1581年)今の津山市加茂町中原にある日詰山に築かれた落合城に羽柴秀吉の家臣木下備中守宮部善祥が駐留していました。 落合城にサムハラと神字で書かれた石碑がありました。 その石碑を拝み、その神字を紙などに写して身に付けた武者は矢や鉄砲の弾が当たらないということで熱心に拝まれており、さらには災厄除けとして拝まれていました。 その後本能寺の変で織田信長は世を去り、羽柴秀吉は豊臣秀吉となり太閤となり、さらには関ヶ原の戦いで徳川の天下となり江戸時代が1868年まで続きます。その300年間もサムハラの護符は地元の人々に信奉されていました。
そして江戸時代が終わった明治元年、サムハラの石碑の地元に田中富三郎が生まれます。田中少年は地元の他の子どもと同じくサムハラを信奉していました。そして青年となり徴兵で日清日露戦争に出征。特に日露戦争ではロシア軍のトーチカでの機関銃攻撃による激戦で多くの犠牲者がある中、田中富三郎青年は無事に生還。田中氏はこれは郷里で子供時代から信奉していたサムハラの護符を身に着けていたお陰だと信じました。
その後田中氏は大阪に出て事業で成功。自分を育ててくれた郷里に恩を感じ郷里にある小学校の加茂西小学校に毎年のように寄付を行い、加茂西小学校には豊かな設備と蔵書が整うようになりました。 引用:津山市瓦版
田中氏はサムハラに参っていたおかげで自分は助かったのだと感じ、事業で成功し大阪へ出たため本殿は大阪に作ったけれど、もともとはこの津山の加茂町という土地にあったものだという事で、荒れ果てていた神社を奥の院としてよみがえらせたとのだそうです。 サムハラ神社 奥の院
サムハラ神社の御利益
『サムハラ』と言う言葉には宇宙森羅万象の気を整えて、世のゆがみを正道に戻すという意味が込められているそうです。
また、いかなる業(ごう)をも一瞬にして浄めてしまう神様ともいわれています。
『サムハラ』というの四文字を正確に書き写して持っていればケガをしない有り難い神字だそうです。写真でもいいようで、この神社の写真を携帯電話の待ち受けにしている方もいらっしゃるそうですよ。

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